2006年05月06日
東南アジアの旅 9日目(4月15日 土)
4月15日(土)
昨晩 夜に 食事に出るとき、街の食堂で食べたのですが、其の前に 屋台で
”これが 好物です”といった 小さな貝と卵ともやしを炒めたものを食べたの
ですが、それが 良くなかったのか、心理的なのか、結果 しないで努めていた
ホテルの トイレを 2度 夜中にすることになった。取りあえず流したが、
岩ちゃんは、眠りこんでいた。
朝 5:30に起き、6時40分始発の アランプラテート駅に ツクツクで駆けつける、既に 人が切符売り場に並んでいる。定刻に発車、タイの田園風景の中を、
涼しい風をうけながら走る。
気持ちがいい、広々とした野である。大自然の豊かさを感じるタイ。
これから 5時間も スローライフで、海岸沿いに、内陸部を走ることになる、
チェンマイに 昨年行って以来の 長い列車である。座席はプラスチックのような、
座り心地の良くない、2等車である。B48と運賃は頗る安い。
列車に乗ると、マレー半島を縦断したい気持ちになる。11月くらいに予定したい。
4時間たつと 座っているけつが痛い、沢山のっている、どの顔も日焼けしている
列車は、貧しい人の乗りものかもしれない。
私は 列車が好きなのだが。
やっとバンコクに近づきだすと、決まって 工場や貧しいところを通る、
車内の人間模様を見ながら(インドの列車のような)、ようやく到着すると
そこは、大きな欧州のような 天井の高い ファラーポー駅である。
そこから 地下鉄、BTSを乗り継ぎ、オンヌー(on nut)駅で下車、市内と反対側
に歩き、soi89で、小道に入り 暫く行くと 住宅街の中に、目指すホテルがあ
った。日本人の経営で、すっきりしていて、かつ宿賃も安い、B170で、a/c なし、
4人部屋とあいなる。トイレが水洗で 普通のタイプ、バスタブもあるシャワーが
部屋の外にあり、石鹸も常備されてあり、ほっとする。
今までの旅は、何だったのだろう。でも 何とでもいける自信はつきました。
日経新聞、インターネット、衛星放送と 狭いゲストハウスだが、申し分なし、
12月にオープンし、 もう一人日本人(社員)とあと若いタイ人。
suhkumvit on nut guest house 66-7-112-1301
岩ちゃんとお茶を飲み、彼は帰る、夜の食事を約束して。
そこで2階にあがり、荷物を少し整理して、所持金の出納と思ったが、
もう 出と入りが 今更無理なので、明日までの必要なタイバーツを確認する。
宿に入りシャワーを浴び洗濯して 明日の出発の段取りをして、岩ちゃんを待つ。
近くのカルフールともう1件スーパーのあるところの、チェーン店で、タイ鍋をあっさり食べる、最後の雑炊を作って食べる、最も 美味しく、残さず食べた。
昨年3月を思い出す、この鍋の食事も、家族で食べに来ている人が多く、“タイもこういう所は 食事にこられるようになった時代です“といった 岩田氏の弁。
物価が非常に安い国なのだが、私には、昭和30年代と重なる。
当時 市電が10円、きつねうどんが¥30、42年に、丼が¥100だった。
少年の頃 我が家は 父がよく道頓堀に連れて行ってくれたが、彼の信条は、食べるものは不自由させないであった。でも当時は、大半が、食堂で うどんや丼食べるのがせいぜいの生活模様であった気がする。(少年時代の30年〜35,6年)
そんな話しを思いながら、宿に戻り、岩ちゃんとお別れする。
アジアに来ると、遠い異国で頑張っている岩チャンには 会いたい。
昨夜 人は 一人で生きられないので、できるだけこちらから話しかけて 友達を作るような (若い頃 豪州で 教えられた men should be sociable ) 話しをすると、神妙に聞いてくれていた。どんな人も話すと 最初のイメージと違い“結構 話せるやん、いい人間や”てな事が多い。まず声をかける、ここからしか人との繋がりは 始まらない。 私は 少々 お喋りだが。
出きるだけ 頭を柔らかくして、人を受け入れ、話しを聞く。主義主張なんて、所詮そう思っているだけで、未経験の厳しい環境に直面すると 其の主義が瓦解するように思う、人生 常に勉強です。
部屋に戻ると、欧州人のような若い人がいるので、話しかけると、米国人であることがわかる、発音が どことなく変なので、米国人には 見えなかったと言うと、
欧州で、自分だけが米国人の環境で サッカーをしていたからだろうか と素直な人であった。暫く アンコールワットや ベトナム戦争(彼の父)、宗教の話しをしたが、興味深かった。小乗仏教に興味あるのか、寺に寄宿して、修業のようなものをしながら これから カンボジアに行くとの事で、いい青年だった。
ついでに、ブログで得た文章の 疑問点を聞くと、彼は流石に 解説してくれたが、
いくつかは 俗語であったり、米国では使わない言葉で、英国人だろうと言ってくれた。
昨晩 蚊に体中咬まれたとかで、蚊取り線香を調達して、長袖を着て、コットンのスラックスをはいて、ソックスまでつけて、完全武装して寝たが、眠れて、被害0であった。
同じ部屋の2人もそのようであった、夜は静かに更けていく、明日はいよいよ帰国。
ここは 安全で快適である。エアコンなしで過ごしたので、風邪もひかなかった。
2006年05月05日
東南アジアの旅 8日目 (4.14.2006)
4月14日(金)
朝5時に、4人で 日の出を見に、岩ちゃんの推奨する場所に車で見に行くことになった、この日が、相棒2人とのお別れの日である。
目指す小山は、登れなくなった(理由を忘れましたが)ので、田舎の地道で見る事になった、少し日が出てから うっすらとほの赤い日の出を見る事となる。
あとで 写真で見ると 美しい光景になっている。
7時に戻り、広いExpressという店で、noodle を食す、7時半には、2人は、
ビソットさん運転(2日間たっぷりお世話になった いい人)の運転で空港へ。
きれいな空港で、そこでもまたネットをしていたようである。其の後のホーチミンでも、
かなり空港のITの設備を検証してきたようです。
我々は、岩ちゃんと2人になったので、8時に出発することになり、国境までのpoipet までの車の交渉をする、$25と言っていたのだが、ソンクランが始まるので(旧正月)
値段があがり、$35となる、どうする、バスは、早朝に出てありません、行くしかないので OKと返事して、車代をビソット氏直接支払い、3日間の宿代と本日の車代を ラチャナさんに支払い、握手して出発した。 ラチャナさんは、言葉も素早く理解して
頭のいい、気のきく女性だった。人のような顔立ちで親しみやすかった。
あとで バックパッカー読本を見ると、若い頃のラチャナさんの写真とタケオハウスが掲載されていた。日本人バックパッカーには、昔から知られた人のようである。
このあと、ラリーのように カンボジア大平原の 赤い土をひた走る事になる。
車で、昼間に 景色を見ながら 大平原を走れる事を楽しみにしていたので、
嬉しかった。唯走破中は、車の揺れが激しく、写真がとれず、隣の岩ちゃんに 何度も顔をぶつける事とあいなった。
最初は 30分程度は、舗装されていて、その後 bumpy road と 欧米人blogで書かれてある道をひた走る事になる。
地道を走行する中、小さい街で、給油をすることになり、村というか、カンボジアの街を体験する事になる。
途中見た村落は、100年以上前のようで、子供は裸足で、家は 細い木の枠組みに 木の葉を乗せたような、村の起こりは このようにしてできるといった家々である。
人は、どんな風にしても生きていけるものだなと妙に納得する。土地は肥えていない気がする、何より 暑すぎる。
ポイペトに近づくにつれて、最初の北朝鮮のような印象の人々、荷車を再度目にする事になる。子供たちが 車に、人に 小さなビニール袋に水を入れて 投げている。
かわいいソンクランの祭りである。
タイ側の街に入ると、もっと凄い仕掛けなのだが、貧しさからであろう、ただ この
東南アジアは共通して、ソンクランの祭りを同時期にしている、共通の文化である。
ポイペト国境で、車を停めて、大きな建物に入る、これがカジノであると岩ちゃんが教えてくれる。タイ人の金持ちがわんさと押しかけていて、大盛況である。
カジノは、アジアに かなり作られているようで、日本のみが ないようである。
そこでB500 か B1000位でとまれるようである、暫し見学して、昼食をとる、
タイ人の家族が、かなりの食事をしていた。昼から食べすぎに見えたが、チップをB3000
買うと、食事は無料のように、本には書かれていた。
かなり疲れた感がする。
通関後、これが妙に長いというか、処理が遅い。
そのあと、岩ちゃんが タイ語で、ツクツクと交渉し、B80 位で交渉し、街まで走ってくれる、街に着くと、ソンクラン真っ盛りで、水をかけまわっている。入り口の手前で降ろされ、宿まで 歩くことになる、旅人には、かけてこないというか、避けるように歩き
宿に着く。他に宿は1,2しかなかった。またタイ語で話してくれて、B200 という
これまでで最安値で泊まれる事となる。部屋は広くて、twinであった。
荷物を少し整理して、階上のテラスから下を見ると、通りが車と人で一杯で、大音響の音楽と水掛けで大騒ぎの様子であった。
ホテルのネックは、東南アジア独特のトイレで、和式の前の隠しがなく、少し小さめで、
紙は 便器に捨てないように、岩ちゃんから注意があり、例の柄杓で、落としたもの目がけて水をぶっ掛けるのである。これは なれないと少し難しく、何より、使った紙を 屑箱に入れておくのがかなり厳しい。
岩ちゃんが い眠っているので、持ってきた みかんに、リンゴを食べて、階下の祭りの状況を見聞し、一人で 通りを歩いてみると、小さな町で、コンビニがここにもあり便利である、顔に白い粉が塗られていて、旅人には、ちょっかいしないが、道路で若者が 狂ったように踊っていて、今もそのリズムが思い出される。良く見るとビール瓶をラッパ飲みしていて、これは危ないかもと思い、気をつけて 観察して部屋に戻る。
夕暮れになっても ガンガンやっていて、治まることがない、消防車の放水もあり、街公認である。夕暮れの光景が、南国独特の夕暮れの景色を思わせ、一人テラスに佇み
見とれていた。心に深く残った光景であった。
2006年05月01日
アジアの旅 7日目(4.13.2006) シェムリアップの街を自転車で
4月13日 (木)
サンライズを見に行く予定が、皆の5時起きも難しく、起きたのが6時頃になったため
岩田氏と街中を散歩する事になる。まだ涼しく 河沿いを歩き、待ち合わせのラッフルズホテルに行くと、そのあたりはヨーロッパで、花が美しく咲き乱れ、芝生は整備され、
散歩に出てくる人もいた。
ホテルの近辺以外は、カンボジアで、整然としていなく、舗道のようなところ、店、ホテル、ゲストハウス群、ホットドッグ売りの車、散髪屋と ゆっくりと1時間ちかく岩田氏との時間を持つ。
朝食も近くで食べ、きょうは まったりと個別行動をする事になる。
自転車を$1で借り、街中、オールドマーケットに行くことになる、午前中は、かっちの
骨董品コーナーを見る。虎の牙なるものを見せてもらうが、信憑性は定かでない。
店の女主人は、凄く商売人で、買い手を帰さない積極性で、カンボジア人には見えなかった。 そのあと、ガイドブックで見た、インドの有名な名前も模した ‘タージマハル’で カレー味を正味する事となる。チリーといったものが、かえって汗が出なくて、
かなり洗練された味で、大阪のインド店でも経験するような仕上げであった。
二人は、戻って、ネットで涼しく過ごし、小生は、その足で、また 散髪やを探して
うろうろし、2週目にやっと見つけ、$1で カンボジアン カットを バリカン主で
仕上げてもらう。仕事は丁寧で、子供の頃の散髪屋にそっくりだった。
アジア人は、こういう仕事は共通性があるのを認識した。
帰り、方向を間違い、やっとの事で ホテルにたどり着く。
夜 また 今度は3人で、チャリンコを飛ばし、街中へ、old marketでは、ゴミだらけの
通路を、全体で 掻き出している光景を見て、アバウトな国民性に思わず納得。
その都度 きれいにしない人々である。
少し やばそうな所も小道を入ると、ソンクラのせいで、大勢で焼肉らしきものをして
楽しんでいた。
夜間は、危険の為外出は禁止とのガイドブックでのコメントだが、うろうろして
状況もわかり、美味しそうな、餃子の店で、テーブルに座り、一時食す。
夜の食事は 最後ということで、ホテルの西洋的な店で まともな食事を軽くとり
終わる。ワインやシャンパンで、
食事中 昨日会った スペイン人カップルに話しかけられ、小生忘れていたが、
相棒が思い出してくれ、慌ててテーブルに行き、暫し 昔ならったスペイン語を多用して、話に花が咲いた。
明日は それぞれ別れの日である。
2006年04月29日
アジアの旅 6日目 (4.12.2006) アンコールトム・バンテアスレイ
4月12日 (水)
早朝に起き、7時頃下にいると、何と朝 岩田氏が訪れてくれる。
あれーメールを昨晩 or 早朝見てくれていたのだ。
それに、昨晩 ラッフルズで、コーヒー呑んでいたそうな。
大変申し訳ありませんでした。
急遽 岩田氏と4人で、アンコールトム、バンダアスレー 追加料金で、
今日は、エアコンの車で行くことで交渉し、$40で決定。
昨日は、ツクツクで、走ると気持ちよく全身を風が包むってことですが、
やはり暑い。
アンコールトムは、ワット程印象強くなく、石の文化に、多少なれる。
唯 巨大な4面像や、閻魔様の門番のような巨大な顔が延々続く道は、
迫力があった。その顔もポルポトに、首や、顔面の半分切り倒されていた。
像のテラスは、今一 彫刻も浅く、思っていたほど感動しなかった。
それより とにかく暑いので、早くそこをすぎたかった。
昼までに、一人がトイレを所望されるので、兎に角 誰に聞いてもいい加減で、
歩くと重大事を招くといかんので、バイクを走る女性の前に 立ちふさがって
大声で ”stop" と言うと、少し行き過ぎて止まった、此れ幸いと
’この紳士がトイレを所望しているので、そこまで乗せてくだされ’というと
上手く事が運び、無事用務を完了。
親切さに感謝して、其の店で、冷たいものを飲む事になる。
素敵な女性でした。
トイレは因みに、民族性豊かなもので、前隠しのない和式小タイプ(想像)で、
事を済ませると、手動水洗で、柄杓で水をぶっかけてお釣が来ないように、
穴に落とし込むようになっている。紙は一様にないので、これまた手動とあいなる。
これが決心がいるので、私は 極力トイレは、外ではしないように勤めたが、
帰る前日の国境の都市で、15日の夜中に、2度も実践する事になる。
(全く 遺跡見学とは 関係なし)
バイヨンも昼までに鑑賞し、観光客向けの少し高いレストランで昼食をとる。
欧米人ばかりである。
次に お奨めのバンテアスレーに行く。
女性の像が印象的で、スペイン人カップルと知り合い。プレループでは、英国人女性と
上で話をした。この時 言っている話が全てわかり、外国にいるとリスニング能力が
上がっていることを感じる。
パゴダの上から見ると、まさにカンボジア平原は、果てしなく広く、不毛の地である。
静かに 一人その平原を見ていると、人間と歴史の悠久さを 感じてしまう。
木が寺院を絞め殺したような建物と樹木を最後に、茶店群で、お湯になったペット
ボトルを頭からかけて、暫し 休む。
というか、休まないと倒れるような暑さであった。
余り たくさん見ても、どれも同じように見えてきたので、本日は、遺跡巡りをやめにして帰る事にする。
夜は、伝統文化のカンボジアダンスを見ながら最高級レベルの バイキング式 カンボジア料理を食す(一人$12)、男女の求愛や、田んぼでの仕事、魚をとる姿と タイと共通している。女性が上にかぶったパゴダのようなものが、カンボジアを感じさせる。
指や体の動きがゆっくりとしていて、のんびりと味わうようなダンスである。
カメラをとりつつ、南国の夜は 更けてゆく。
東洋のモナリザ
2006年04月28日
アジアの旅 5日目(4.11.2006) アンコールワットを見る
4月11日 (火)
朝 出るということで check out’ と決定すると、とたんに21歳のオーナーは、
ころっと変わった態度で、ノートの金額をジョークをいうと通じなかった。
被害額は最小に抑えて玄関をでると、同じ手合いの20過ぎの日本人女性がいた、話かけると、もっと良心的な所に替わるところだとのコメントで、一緒に出ることとなる。
服装が、東京で街を歩いている出で立ちで、とてもアジアを旅する服装には見えなかった。
旅行バッグを腕にかけて、夏向きのヒールで、危険な気がする。
と同時に 出る若い人二人に話しかけると、何と かなりの額をむしり取られたあとであり、文句をいってやろうかと思ったが思いとどまった。
アンコールワットへの車とか、$60 ぼられ、食事、宿泊も高く、トータルで払えず
自分の携帯も差し出したとかで、身ぐるみ剥いだとは この事であろう。
若い人は なぜ こうも警戒心なく、交渉力がないのか、勉強とはいえ、情けなくなりました。こんな小柄なおっちゃんもバトルするのに。
小道を歩き、大通りの6号線にでると まもなく、食事をする事となり、数ドルで美味しいアメリカン 朝食が食べれるので、味わって食べた。
そのあと、かの有名な 日本人向け ‘タケオゲストハウス’を彼女が案内してくれる、
そこの女主人と話すと、英語も良く通じて、料金体系も健全に表示されているので、
そこに即決定した。
のちには、結構居心地よいところとなり、正味3日間たっぷり滞在した。
朝に行動するのが最もいい、後で考えると、柔かめのカンボジアの本を読んでいたのだが、
その通り 思うつぼのバス旅行、ホテル、謎の食事だったが、まあかわいい小悪人だったでしょう。
最初に タケオで、宿泊交渉をする、一日$7/twinと言うことで納得、
2部屋確保して、自分の部屋は、岩ちゃんが来るということで了解してもらう、
まず街中を走ってもらおうと、車の交渉をすると、tuk tukで、$10.−車$20と
言うことで、相場通りのため了解、唯 もう朝でなく、午後$5と午前半分と言うことで、
10時半スタートで、$8で交渉成立(一人¥320と割安)、まずは 街の中を走る、
あっという間に廻り、これだけだというので、それジャー早速 アンコールワットと言うことになる。少し舗装道路を走ると、gateがあり、そこで$40(3日間用のパス)を
支払う、かなりの高額で、この費用が寺院の補修に廻される事になっている。
因みに 住民は無料となって、あちこちで遊んでいる。
パスポートなるものを発行して、写真を撮ってもらう(写真料:無料)、気持ちの良い
両側に木が植わった道路を快適に走る、遠くに 世界遺産が見えてくる。
何だか黒ずんでいて、こんなものか との印象で、近づく前に 大きな池の周りから写真を撮る。
たっぷりアンコールワットを4時近くまで6時間程度滞在する事になるが、
元々 岩田氏と共に行く予定で入れ違いになったため、彼が来て合流してから
本格的に回りたいのと、彼は2回目なので、ワットのみ回ることにした。
岩田氏とは、本日の夜9時又は明日の同じく9時に、シェムリアップ最高の
ホテル ラッフルズグランドホテルで待ち合わせるメールは入れている。
唯 確約がとれていない、心配ではある。
正面には、違った形の塔があり、そこを通り抜け、西洋のような石畳を通り抜けると
これまで書物やヴィデオで見た アンコールワットがそこにある。
抜けるような青空に、1000年の歴史をたたえて、聳えている。
峻険な階段を上り、中に入り、石だけの文化を堪能する、その間に、回廊があり、
その回廊の壁画を、じっくり見続けていると、その時代の姿が見えてくる。
暑いので、しばし石に腰掛けゆっくり佇んでいると、悠久の歴史を肌で感じる。
見れば見るほど、回れば回るほど12世紀に完成したと言われるこのパゴダの
文明を感じてしまう。
等々 夢の世界であった、このruinsに、今居ることの喜びをあらためて感じ、
仲間の2人も その壮大さに感心してくれたと思う。
暫く じっとこのあたりで 一日 佇んでいるのが、この鑑賞の仕方と思う。
後に アメリカの若者が、1週間 ワットにいるというので、思わず 納得した。
間違いなく ここには ギリシアの文明、コリント式、イオニア式、エジプト文明に
匹敵する東洋の文明が存在していた。
寺院の周りで、パンと飲み物を売っていて、軽く昼食がわりにする。
夕方 バケン山(75m)に登り、sunsetを見るが、曇っていて、美しい夕焼けは見えず、
登って来た人ばかりで、帰途につくことになる、当日は、タケオハウスで食事をし
また すぐ近くで ネット店を見つけ、スカイプする事になる、途中 ラッフルズに
Tuk tukで 訪れて、中に入るも、彼は来ず、諦めて帰る。
あとで 知った事だが、メールを見ていて、中で 高級なお茶を呑んでいたようであった。
トイレに入った時、横目に 中の人を見たのだが、大胆に中に入れば良かったと後悔する事とあいなり、夜は更けていく。
2006年04月27日
アジアの旅 4日目(4.10.2006) カンボジア大平原を陸路で
4月10日(月)
日本人バックパッカーの定宿、さくらハウスに初めて泊まり、シャワーの状況、環境の騒がしさ、ドミに入るまでの未整備な建物と体験しました。
日本人宿といいながら、日本人のスタッフはいなかった。英語の苦手な若者が、適当な
日本語・英語で泊まれるという代物です。英語がある程度できる太めの女性が一人いる程度で、エアコンがあるが、全体に不潔であった。
他は、欧米人のバックパッカー対象の宿が密集している地帯だが、コンプレックスを感じるのか、よりによって最も設備の悪い所に泊まっていると感ずる。
彼等に話しかけると 人によっては礼儀が悪く、色んな国に行っていて30日位旅行しているが、その割に欧米人バックパッカーと友達になっていなく、食事も気を配っていなく、
情報が限定的な気がした。もう少し、貴重な体験を大事にして、人とも交流して、文化を認識して、歴史をもう少し勉強して、世界観、アジア観を持って欲しいと思った。
それはそれとして、朝6時に起床し、荷物をまとめて出ることにした、例のボンドとの差額の精算を考えていたが、受付が、例の女性も来ていなく、朝6時に出ると言ったにもかかわらず、理解できていなく、死んだように例の男性が眠りこけていて、仕方なく 宿を後にする事となる。 7時前から代理店に入り待ち、運転手が顔を出すが、ネットを少ししていて、その間待たせて、小さいバンに乗り込む、他の乗客もいて、例によって、
大型バスを待つところ一箇所に連れてくると、そこは大通りで、欧米人ばかりであった。
その間、コンビニを見つけて、朝食用のホットドッグと飲み物を3人分購入した。
かなり待たされたあげく、8時半に出発、道路は快適で、バスもエアコンと文句なしで、
3時間程度で、ボーダーに近づく。街のあたりで、chinese の経営するレストランで、
昼食となる、価格も実態よりも高いが、$2程度で焼きめしを食べ、ビールを飲んでくつろぐ。これも代理店、カンボジア側業者、ホテルと全て連携している。
歩いて、カンボジア側に歩いていくと、荷車を引いた人が多くて、時代が100年前に戻った感がある、北朝鮮がかくのごとき状態であろうと想像する。
入国審査が長く続くせいで、手前のところで待たされ、何故か長時間かかり、審査を通過すると、次のカンボジアサイドのバスに乗り換える、どんな代理店と契約して、どれ程
払おうと、結局カンボジアのボロバスに乗り換える事となる、1,2年前の欧米人、日本のブログやガイドを見ても、ここからは、pick-up truck, エアコンなしの暑い小型バスに
変わることを予想していたので、皮膚が弱いので、ホットしたのが実感。
カンボジアサイドのポイペトは、ツクツクという小型改造自動車(ミゼットの、荷台が広くて汚いもの)が勢揃いして待機していて、ボーダーからカンボジアサイドは、独特の
世界が始まる。30分も舗装道路を走ると(舗装されていないということであったが)
突然、赤茶けた地道のcambodian pleatau(大平原)が始まる。
見渡す限りの平原は、貧しさも反映している事を知ることとなる。
田畑も少なく、痩せた土地に、日差しが暑い。
4時頃に、謎の休憩、食事タイムとなり、支払いもいい加減なレストランで、
相棒は、快調にビールを食す、後進国においては、ビールが最も安全な飲み物というのは
ビジネスマンの定説である。
夕暮れを見ながら、ガタガタの道を一路 シェムリアップに向けて走るが、走るに
任せて かなり居眠りをした(ガイドによると、とても眠れた代物ではないとかいてあるが)、そのうち真っ暗となり、眠りもさめて、隣同士、夜が、真剣な会話をさせてくれる。
それが 思うつぼの受け手のゲストハウスが、口を開けて待っていた。
夜9時になり、どこも行けない状況で、猿のようなカンボジアの若い連中が、泊まりの交渉、謎の日本語を駆使して、欧米人をうちやり、我々ばかりに話しかける。
明日以降のドライブ、観光にぴったり寄り添い、ドルをせしめるのが狙いである。
その夜は わかっていながら、$5程度の宿を$8とられ、食事も簡単なものに$10ととられ、いつのまにかルームNO,にノートを作って、請求明細にしている。
気もしない一皿をcross outさせ、価格をしっかり確認して、2つのベッドを一つにして、
3人で寝ることになる、結局寝たのだが、寝る前に 一人 明日は 出ることを決意。
こういう宿の事、バス、謎の食事と全て 欧米人のブログに書かれてある事を思い出した。
結果として正解となる。
2006年04月26日
東南アジアの旅、3日目(バンコク、カオサン)
4月9日(土)
もう一日滞在して、是非とも彼等に、王宮(バンコクの至宝)を見せてあげようと思い、
車をとめて、一路王宮へ。
B250と高いが、必見の場所なので、入場する、その入り口で一人のジーパンが長いのだが、穴が空いていると言うことで、足止めをくらった。
結構 厳しいものである、最初の通用門も10数名の軍隊が詰め所にいる。
最初に 黄金に輝く、パゴダは 印象的で、金色も鮮やかなのだが、少し剥げるとその上から新しく塗ると言うことで、いつも金ぴかにしているのがタイ流である。
今回パゴダの周りをじっくり周り、アンコールワットの模型や色んな彫刻があることを
あらためて知る事となる。相棒が 近くの店でズボンを買う事になっているので、遠くに
行かず じっくり近くを観察する事となり、かえって彫刻の精緻さ、周囲の壁の絵巻を
丁寧に見ることとなる。
本堂の中に入ると、唯一中は涼しく、暑さをしのげ、お礼のおさつをプラスチックの賽銭箱にいれ、周囲の人々、天井の装飾を見て、その空間を愉しむ。
仏教の深さを あらためて知る事になる。
中々 相棒が入場しないので、衛兵(生きた兵隊)がピクリとも動かず立っていて、
美しい庭園、建物を尻目に、退場し、入り口に舞い戻ってみると、彼は座って待ったいた。
彼によると、入場料を取り戻したとのこと。その間 近くの店をうろうろして、一人で愉しんだようで、自立していて 初めてにしては大物だと感じた。
この近くから、確かボートに乗り 河を走り、色んなところが行けるのもバンコクらしい
水の都である。
一度 ゲストハウスに戻り、再度 旅行代理店の手配したローズガーデンに行く
中型のワゴン車に乗り込む事となる。一人B500と結構する。
一時間以上道路を走った郊外にそれはあり、池を散歩して、象のショーを見て
小屋というか体育館のような所にはいると、かなりの人が入場していて、伝統的ダンス、農家の生活様式、農家の踊り、衣装を変えての伝統的踊り、バンブーダンス、さらには
中年のキックボクシングと 寄せ集め劇場のようなものをして、終了となる。
夕方 カオサンに戻ったので、美味しそうなレストランがあり、そこで甘い美味しい緑色の甲羅の蟹を食す、たいそう美味しく 食べきれないほどの量で、お汁がとくに美味しかった。かなり堪能し出した頃に、欧米人が団体で入ってきて食事タイムとなるが、
こちらは、インターネットタイムである。
その前に キックボクシングが見たいとのことで、B1000と大変高いが 参考に
見に行く、タクシーを捕まえたが、メーターなしが気がつき、大声で止まらせたが、
相手も価格の話になり、適当なところで妥協し走らせたが、すぐ近くであった。
実際のキックボクシングは、あまりexcitingでもなく、観客も少なかった。
何試合もあり、最後メインエベントとなる。
タクシーは近くで行ってくれなく、ツクツクを交渉して戻るが、神風ツクツクで、
スリルがありすぎたが、カオサンには無事到着した。
そこから最後のインターネットで、大阪と実況中継をする事となる。
途中 美味しい屋台の叔母さんの ホットケーキの様なものを食べて 祭りのような
雑踏のカオサンを愉しむ。
そのネットの前に、必要な衣類を交渉して買う事となる、かなり良心的な店であった。
その間 色々と現金のバーツが必要となり、ATMで B1000を 何度もおろす事となる、機械の前では十分注意しながら。
宿に戻ると、英語のわからない男が座っていた、精算の話ができず、結局翌朝も
その男がだらしなく寝ていて、デポを精算できないまま 不本意ながら、後にする事となる。
カオサンは、ほんとに訳のわからない、正体不明の欧米人が闊歩する街であった。
とにかく 騒がしくて 眠らない街。
ベッドにいる 若い人たちと 話をして、明日の荷造りをして、早朝に対処する事とする。
貴重品のバッグを枕の横に、睡眠剤を飲んで、3日目は過ぎていく、もう長くいる錯覚に陥る。
2006年04月25日
アジアの旅 2日目(4.8.2006) バンコクにて
4月8日(土)
急遽 バンコクに飛ぶこととなり、サイゴンピンクで、2泊の予定で広げた荷物を
急ぎパックアップして、明日の午前便に備える。
岩田氏とのmeetingは、11日、12日の夜、シェムリアップで最もいいホテル
ラッフルズ ホテルで会う事をメールで入れることとして、目途をつけた事で元気が
でてきて、11時に寝て5時起床する。
朝、バンコク、カオサンに泊まる事にしたが、なにぶん殆ど白紙の状況で、
宿も調べてはいたが、前回わからず、カオサンも知らないので、関連の持参の書類を
確認し、頭に入れる。
バンコク到着後、ネットで前回調べた内容で、路線バス#52を待つが、殆ど来ない
何度も見過ごし、そのナンバーがくるも、下に赤いカードがあるのは、行かないとのことでやり過ごし、30分以上待ち、排気ガスも強く、諦め列車で行くことになる。
金額もB20と頗る安いのだが、当分電車も来ず、30分以上待ち、更には1時間位
かかるので、あまり効率良くもないのだが、体験してもらうこともあり列車を待つことになる。 飲み物をのむため、構内の食堂のような開放的ところにすわる、のんびりとした時間が流れる、やはり暑い。
ようやく来た列車に乗ると、乗客は 浅黒く日焼けした労働者風の人、親子づれ、
若い人と様々で、人間模様を載せてバンコクの郊外の工場地帯を走る事になる。
ファランポー駅(中央駅)に近づくにつれて、線路沿いのバラックの密集した箇所を
何度も目にして、アジアの貧困層を目の当たりにする。
ようやく駅に着くと、欧州風の天井の高い広々した構内を 出口に急ぐことになる。
駅前の 英語のわかるツーリストガイドに、シェムリアップまでのバスの確認をすると、
公認の安全な代理店を紹介される。いざ交渉しだすとB900(2700円)と高い。
他の所は 危ないというが、得た情報の値段とあまりに違う。
結果として、ボーダーまでは、どのバスも冷房完備の大型車で、カンボジア領内にはいると乗り換えて、旧型の悪いバスに変わるのは 変わらない事を後ほど知ることとなる。
取りあえず カオサンで旅行代理店を探すこととして、タクシーに乗り、カオサンというと、すぐ通じた、欧米人バックパッカーの溜まり場として知られているが、現地の人には
知られていないと書いてあったが、旅行者が多いのだろう。
王宮をすぎてまもなく、カオサンにつく。
かなりの人出で、賑やかな街である。
事前に調べた さくらホウスを聞くも、日本料理屋を教えてくれたりで、ようやく
探し当てたが、それは カオサン通りでなく、一本入った通りにあり、一流ホテルの
前に その安宿はあった。
エレベーターは老朽化していて、3Fでストップし、4Fへは、汚れた階段をあがると、
ようやくその宿はあった。日本人が多く滞在しているが、受付の太った女性は、英語しか
理解しなかった、唯 こちらの言うことは良く理解してくれたので、それは良かった。
取りあえず 部屋をみせてもらい、部屋が 病院のように、ベッドがあり、すべて上段下段とあり、B170/1泊で、冷房ないし、ファンのみの宿にとりあえず落ち着くこととなる。
ベッドの為、荷物も広げれないので、必要なもののみだして、シャワーや、トイレ洗濯機を確認した、どれも最低限度の状況であるが、取りあえず落ち着くところができて、
その日1泊分とボンドとして、B100で、計B270を支払う。
次に旅行代理店を廻る事になる、さくらで教えられた店は見つけられず、最初の店は
B200ときわめて安く、他もあたるがB350と愛想も悪く、結局B200のところで、チケットを購入し、ついでに シェムリアップ−バンコク間の航空チケットも購入する。
チケットは 一社独占らしく$200以上と高かったが、交渉の余地なく購入。
これで、宿、シェムリアップまでの足の確保、ふたりの帰りのチケットと購入し、
本来の目的のアンコールワットへの道筋、帰りの足と片づき 正直ほっとした。
あまり早く移動しても仕方がないので、もう一日滞在し、明日王宮を見てもらう事にする。早速ネットの店に行き、持参のパソコンを繋いで、ネットできるように交渉し、一件目は
断られれたが、2件目で、OKとなり、早速ネットを接続し、スカイプをして、大阪の仲間と自由に話しをし始める。欧米人も 驚いたことであろう。
ノートパソコンを持ち込むバックパッカーもいず、目を引いた。
日本との交信は、音声もしっかりしていて、十分機能し、ITの威力を遺憾なく発揮した。
体験したことをmixiで流し、写真も送り、realで 話もするという初めての
旅である。
こちらは 早めに引き上げて、シャワーを浴び、水の出ない洗濯機であらい、事務所用の
水道で水洗いを結局して、汚いもの干し場にひっかけ、もの凄い騒音の聞こえる中を通り
奥の病院ベッドに体を休めて一日が終わることになる。
2006年04月22日
2度目の ホーチミン (April 7, 2006 in saigon)
4月7日 (2006)
朝5時45分起床、前日までに用意してあるハイキング用パックに、洗面用具をつめて、
バンド付サンダルをスーパーの袋に入れて、別途外に出し、パックパンパンである。
いつものように、オートミール、和食、ヨーグルト、昆布水を 胃袋にいれて、
7時に家を出る、桃山台まで送ってもらい、難波で8時ジャストのスタート ラピート3号の席につくと、快適で、ここから外国人の客がいて、もうはや海外である。
開放感が出て、エネルギーが湧き出す。窓からの 桜並木が美しい、5,6分咲きであろうか。 空港に着くと vietnam airlines の航空カウンターで、チケット確認をする。
今回のチケットのある区間をキャンセルできるか聞くと、それ以降全てキャンセルになるとのコメントでがっかりする。現地で再交渉する事にする。
カウンター近くで、若手2人と会う、二人とも揃って軽装である。
ギフトの売り場は 煩わしいので、次々進み、boarding の直前の飲食テーブルで、
カッチが間際まで、ノートパソコンで仕事をしていて、15分前に搭乗して座席につく、
離陸すると、水平飛行に変わるとまもなく 食事が運ばれ、ビールを頼み、ワインは
白を頼む(白が外れない)和風の照り焼きチキンが大変美味しく食事はいい、
カンパリとかなり良く飲む。親方は 上空をデジカメでとり、食事も写真を撮っていた。
初めてのせいでしょう。食事のあと、ベトナムティーを頼む。
入国カードは、少し記載方法が違い、乗務員に尋ねる。
ハリーポッターの映画を見出すと、いよいよ外国に入った感がある。
折りたたみの歯ブラシが トイレにあり、食事といいこの航空会社は サービスがいい。いよいよ ベトナムの上空に入ると、メコン川が流れ、大地が薄くピンクで、赤い。
暑さを感じる。 空港に降り立ち 入国審査では、係官が 厳しく(カードには、ホテル名まで記載の事)、時間がかかる。
空港の 玄関に降りつと、2004年に来た 当時のままであった。
そこを出て 道を横切ると いつもの乗り合いバス#152が正に出んとする、10分程あとのバスに乗ると、市内まで運んでくれる。何とまた同じ女性の車掌であった。 2000 Don の硬貨を払うと、傍観者となって 道行くバイクと店と人が観察できる。
道路は、クラクションが鳴り続け、バイクの洪水である。
マスクをつけて走っている、道がきれいになっているようだ。
イザ 滞在なれた ベンタン市場を抜けて、サイゴンピンク2に到着。
いつもの Ann Thuと会うと気持ちが落ち着く。一部屋$15を確認するが、
何故か 何度かやり取りして決着する。Air line に交渉しなければ。
作戦を立てて、部屋から電話することにする。電話で話すと、埒があかない、何故か状況悪くなり、事務所に来るよう要望される。電話で複雑な事を話すのは難しい、今一伝わらない。結果として 階下の受付に入ると、ホーチミンの hongさんに会う予定なので、
「彼女と連絡とれた?」って聞くと、取れたようだが、カウンターにいた日本人から
「日本の方ですか?」と問われ、ついチケットの件で相談すると、一緒に事務所まで付き合ってくれる事になり、2人に連絡して共に行くことになる。これがマッキーこと 坂巻氏との出会いである。
カウンターで、話すと 意外に簡単に進み key boardを カチカチ打ち、okのようである、
それに合わせて、2人の分を頼み始めると、バンコク−ホーチミンのキャンセルあたりから雲行きが怪しくなり、マネージャーに確認するといい、出てきたら、状況はガラッと変わり、選択肢は2つになっていた。
一つは 全てキャンセルし、新たに$600で日本までのチケットを購入、又は そのまま
明日 バンコクまで飛ぶ。バンコクの事務所まで連絡とってもらうことになったが、
途中で時間切れ もう6時を過ぎており、相手がいなく、更には、明日は土曜日で休み。
うーん 最悪、万事休す− 頭が真っ白になり、暫く思考不能となる。
その前を、「まあ こう言う事もありますよ」と簡単なコメントが他のメンバーから出る。
明日 空港で待ち合わせる事になっていた‘岩ちゃん’との再会、その後の旅程(itinery)
は どうなるんだ! Oh god!
マッキーが、‘4時に私が迎えに行きますわ‘とのコメント 経緯を話してもらうことになる。それでいけるんだろうか、だがしかしさっぱり名案もなにも浮かばない。
プノンペンは どうなる、結局siem reap の待ち合わせは、どこでいつなのか、頭がぐるぐる廻るだけ。
取りあえず ガイドブックで決めていた レックスホテルの裏 ロイヤルコートと言うレストランに行こうって事になる。道のことも頭にまとまらない。
レストランは ほどなく見つかり、感じのいいホテルで、食事を色々食べてアルコールを飲んでいるうち、伝統音楽が始まり、アオザイの伝統衣装を次々変えて踊りだす女性に見とれてカメラを切る間に、大切な事も忘れ、マッキーの歴史談義に花が咲く。
さて支払いの段になると、何と$68と 大変高く、当初の一人$8の倍になってる。
‘oh my god’ 3人で後で割ることにして、カードでサイン。
明日は 取りあえず 初めての宿 カオサンか、ホテルで 早速 スカイプで 使い倒し道場の実践を2人はしていた、そこにマッキーが参加して、一夜は更けていた。